月刊水中ニーソ、今週9日はもう12月号なんだけど(悲しいことに最終回)、先月11月号に参加したときに感じたことを、遅ればせながら書いてみる。
先月のゲストは、村上隆氏の弟子?のMr.(ミスター)さんだ。今回まで知らなかったんだけれど、萌え絵アーティストというところでしょうか。世界レベルで萌え絵の個展を開かれている。
水中ニーソの古賀さんとMr.の話の中の最後で、「拗らせるのが最強」という話が出た。私はこの話が出ると、大変嫌・・・というかまあ、複雑な気持ちになる。
90年代からオタクをやっている人は、しばしばネット(インターネットではなくてパソコン通信ね)上で、拗らせた自分の自虐アピールをしていたもの。ダグラムというロボットアニメの主題歌の出だし サビを歌ったりするんだよ。
当時は女子おたくの数も少なく、ニートという言葉もなくフラフラフリーターも気楽にやれていた時代だ。だけど余裕がありつつも、普通に若者をやったり社会人をやったりしている人にコンプを持っていたんだよね。しかし、私はオタクの遊んでいるオモチャが本質的に最強の玩具だと自信を持っていたので、こう考えていた。
自虐的になっていないオタクこそ最強中の最強、次の時代を取る、と。
外人のオタクは、あまり自虐してないんだよね、当時も今も。だから、その人らがコミケ会場でうろついている姿は、輝いて・・・ないけれどカッコよかった。また、外人のオタクが書いたアニメ絵のCGは、妙にまっすぐで気持ちが良かったりするのよね。
いっぽう、日本人のオタクは旧エヴァで監督にコケにされて怒ったりしばらくすると忘れたりしながら、基本相変わらず。自虐的という意味では、どんどん進行しているか。最近はオタク趣味も一般化してきたから、国民全部をオタクの自虐界にブラックホール的に吸い込んで病気にして行ってるような感じかな。
そういう状況になってやっと、拗らせてないオタクというのが目立ってきたような気がする。ここんところ毎回、Perfumeだベビメタだとそういうことばかり書いているけれど、拗らせていないオタクが出現して、しっかり世界に通用し始まっているので、自尊心が満たされているんだよ。
水中ニーソも拗らせてないオタクだと俺は思ってるんだけど、古賀さん本人は拗らせてる自意識らしいんだよな。だけど、それが作品に拗れて出てきてないので、それは拗れてないんだよ。ベビメタたちとそのうち同格で扱われて世界に行くに違いないです。
問題は拗らせ話のところで出てきたMr.の絵だ・・・あれはヤバくないか?絵が拗れている・・・。いや、表現はすべからく健全であるべきというわけではなくて、ムンクの叫びみたいな絵も当然あるけどさ。あれは・・・どう受け止められるんだ皆に・・・。

絵のラインが気になるよな・・・最近というかここ5年くらい気になってるんだよ・・・。マンガ雑誌をたまにめくると、妙にラインが歪んだというか縮こまった絵ばかりになっていることがさ・・・。ムンクの叫びを生んだ時代状況のように(よく知らんけど)、現代も病んでいるということでしょうなあ(´Д`)=З
弱者のふりをして弱者じゃない人たちは、無自覚に強い。
ああ、メンヘラの話もちょっと出てきたんだよな。メンヘラはセンシティブな話なんで、趣味界で扱ってほしくないな。もとメンヘラとしては。
きましたよー^^
では早速、私は萌え文化も美学も不案内なんでアレなんですが~、取りあえず感じたこと、以下てけとーですが書きますね^^;
*
ざーっと水中ニーソ拝見したところ(←まとめNEVERでチラ見したw)、思うにその古賀さんとMr.の「こじらせるのが最強」というのは、人間の持つ美に対する感覚の普遍性の面から考えると、なんとな~く理解できるような気がします。
順を追って説明します。(←あくまでも個人的な素人考えですヨw)
*
まず、人間が一般的に、対象に対して客観的に”認めることができる”「美」というものがあります。
それは黄金比・白銀比、あるいはフラクタクルなどで構成された空間(動線など動きも含む)であったり、あるいは音階や色調であったりするわけですね。
しかしながら、カントを持ち出すまでもなく、美とは(人間個々の感性が異なるので)主観的なものであり、同じ絵画・建築物・風景他を見ても、万人の感性が完全に一致する普遍的・客観的存在としての「美というもの」はありませんよね^^
にもかかわらず、いつの時代であってもヒトは美を求め、美を語り合い、そして倦むことなく美を次々と創り出し、そして今現在創り続けています。
なぜならヒトは「美というもの」に対して根源的な「心地よさ」というものを感じ、「心の安らぎ」をそこに見出すからですね。
つまり、ヒトの持つ「美という概念・感性」は、人間に心地よさという生存を要求する、生存欲求に直結した本質的かつ普遍的な概念・感性であるともいえるかと思います。
したがって、本来「美というもの」の概念・感性の本質には、苦悩や悲しみ・憂いの概念はなく、純粋無垢・純真無雑・純潔など、清らさ・透明感・統一感などの感覚が含まれるわけです。(それで昔の絵画や彫刻でも、子供の純真さ・純粋さが象徴として描かれ、世阿弥も童子の立ち姿に幽玄を観たりする)
しかし、実際の世界は、矛盾と不条理に満ち、苦悩や悲しみ・憤りに満ち満ちている。
それどころか都市社会が発達すると(つまり現代社会も)人と人との絆は希薄になり、逆に「勝ち組」など、人の生き馬の目を抜くことが喜ばれたりするようになる。
その時、自分の中にある矛盾する(どろどろした)部分に気付いた人々は、単純な「純粋さ」だけの美だけではなく、そこから逃れた先や過程の美を見出す。
それが滅びの美学であったり、背徳の美学であったりするんだと思うんですね。
「拗らせるのが最強」というのは、いわば、古典絵画の神々や女神や天使等の通り一遍の「美の再現」「純粋さの表現」ではなく、現代における資本主義経済という、すでに逃れられない社会システムに取り込まれた個々の人々の、矛盾と不条理に対する抵抗を含めたうえでの「純粋さという美というもの」を表現したものなのではないか?と思うのです。
すでに決められた社会システムというレールから、一歩外れているオタク文化だからこそ、そういう美的表現が追及され、また産み出された。
そういうことなのではないでしょうか?
ま~、角度を変えて「拗らせる」を解釈してみましたが、
えー、正直その正否はまったく自信はありません!( ̄^ ̄)キッパリ
usikamo先生、大変力の入ったコメントをありがとうございました!
ええ、まったくおっしゃる通りでして。オタクというのは、戦後の高度経済成長、またバブル時代からの反動で出来上がった集団ですから。そういう意味ではヤンキーと同じなんですよね。出方が正反対ですが。
本来の日本を継いでいるのは、現代ならリア充といわれるような人たちよりは、オタク連中ですし。拗れた結果、妙にまっすぐな表現になっているのが面白いですね。
ベビメタやPerfumeも、いってみればオタク的な発想からできてますね。Perfumeなんかは、ファン層にいわゆるキモオタもクラブで踊ってそうな人も含まれてたりします。ベビメタはどうなのかな。
先生だなんてそんなー!(゚∀゚*)アハハ ←普段言われたことないから嬉しがってるw
ま、冗談はともかく、
ベビメタもPerfumeも、同じミキコ先生の振り付けですが全く受ける印象が違いますよね。
Perfumeは、youtubeでチラッとしか見たことないんですが、そのダンスの動きは、何か動線としての黄金比のような美しさが含まれていて、それが観る人を惹きつけてるんだなぁと思ったんですね。
またその上に、ベビメタとは異なり、スカートが短くて女性としての露出があり、同じ「アイドル+○○○」というコンセプトでも、聴衆に働きかける「美の性質」のうち、アガペーよりもエロス的な側面が強調されているんだなぁと感じたんです。
※注:アガペー・エロスの愛の概念は異なりますが、どちらの愛も男女や真理・神と一体化するという意味での”心地よさ”と解すれば、「美というもの」への欲求とイコールで結ぶことが可能。
つまり、
・Perfumeはより性愛的である一方、
・ベビメタは極力、性愛的要素が排除され、よりアガペー的な「聖少女」とでもいうような「美の性質」の一側面を体現したもの、
ということが可能だと思います。
そうすると当然、それぞれに対して聴衆が求める「美の性質=心地よさ」の嗜好によって、ファン層も異なってくるわけですね。
その影響で、Perfumeのファン層にはベビメタのファン層よりも、
>キモオタもクラブで踊ってそうな人も含まれてたり
するんだと思います。
もちろん、ヲタクを否定しているわけではないですよ^^
エロス的な美の対象に、惹きつけられ魅せられるのが人間であり、もしそれがなかったなら、その人は死んでるかターミネーターか、あるいは宇宙人wですから。
それにそもそも、はるか数千年の昔から、ヒトは「少年少女&子供の持つ純粋性」に美を見出してきたわけですので。
しかしながら、現代社会では、そういう「美」に対して芸術性を観るよりも、ストレートに性的欲求の対象物として捌け口を求めてしまう人が増え、また実際に性犯罪に走り事件が社会問題となってしまっています。
それが逆に、そういう根源的な「美に対する欲求」を社会全体として抑圧してしまい、そういう「美」そのものを理解し求める人たちをロリコン・ヲタク等と分類して、社会の枠の外側にあるものとして位置付けてしまっている。
だから、そういう作品を創作する表現者たち自身が「拗れている」という感覚と言葉を使ってしまっているのではないか?
そう思うわけですね。
そこに現れたベビメタは、外見上は明らかに”ロリ”でありながら、しかしその性愛的要素を一切排除した上、メッセージ性と当人たちの真摯さ・熱心さ・純粋さを、神バンドの爆音&疾走感で表現している。
現代の”大人社会”の矛盾や不条理に疲れ切った”オッサン”が、ドロドロした人間関係や性的欲求の中、思わず清らかな泉を見つけたように、かつて純粋だった青春時代・学生時代を感覚せられて、ベビメタに今の自分を投影して「ハマってしまう」のは当然のことだと思うわけです、、、
結果、世界中、オッサン同士のチケット争奪戦勃発!
※スイマセン、またまた長文です
やっとコメント返信できます。
・Perfumeは性愛(エロス)的
・ベビメタはアガペー的
これはその通りですが、PerfumeのライブをMC含めて通してみますと、エロスでありながら神への愛アガペーに直接繋がってしまうという、恐ろしい才能を見ることになります。ファンとの関係性が、他ではちょっとありえない関係になってます。あれほど(女性的な)愛にあふれた空間は、他にはないです。
ベビメタのファン層についてあまり知識がないんですが(ちゃんとベビメタを追い始まったのは今年からでして)、そうですね、彼女らは「聖少女」であって、あるいはジャンヌ・ダルクであって、この先歳を重ねてもおそらく露出は最低限になりますよね。そして、オタクが内在させた少女に対する美意識や愛を、これ以上ないやり方で表現し成功しましたね。
禁じられた少年少女への愛、あるいは高度経済成長で称揚される態度としてのある種機械的態度、そういうものの限界が来ている。Perfumeにしても水中ニーソにしても、時代が要請したんだと思います。
遅くなりましたーっ!
Perfumeについてほとんど、ってゆーか
全く知らないのに解釈がちょっと断定的過ぎましたね^^;
まぁ、実のところアガペーもエロスも知らないんですがw
でも、ベビメタファンの方は同時にPerfumeのファンである方がホント多いですね!
ん~、どっちかというと先にPerfumeで後からベビメタも知ったって感じでせうか?
その「事実」から考えると、やはり共通した【何か】があるってことなんでしょう。
ちょっと話はズレますが、以前、例の管理人さんと「そのうち『萌え』について議論してその本質について追及しよう」ってなこと話してたんです。
私自身は先にも申し上げた通り、サブカルもまた無知なんですけど、「カワイイ」以上に難解な概念である「萌え」という概念に何か、大きな秘密があるのではないかなぁ~と直感してるんです。(残念ながら「直感」じゃないデスw)
例えば、萌えるという感覚はマンガでも使用されますが、しかし廃墟や鉄道なんかでも「萌える」って使われますよね?
今、深くは考えてないんですが、共感するところまではいかないけれども、なんとなーく理解することはできる。
その人間の共通した感覚は、本質的な、あるいは普遍的な概念からきているように思うんです。
そこを追及していくと、アガペーやエロス・カワイイや萌えをも抱合した本質的な人間の「根源と在り方」、ひいては、その人間たちが構成する社会の「根源と在り方」というものが見えてくるのではないか。
ここ数十年、日本社会は、というか、モノを中心とした都市社会は、生活こそ便利となったものの、その【何か】を失わせてしまった。
しかし、その反動というか、ある種の人間性への回帰という形で、カワイイや萌えという感性が、今の社会制度がもたらす矛盾を感じた人々の中から生じてきた、、、というより再生されつつある。
そういうような気がするんです。
以下に紹介するQ&Aは、少々小難しいんですが、まさにそのことを論点に挙げているものです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1176526721
(課題中のIchとはドイツ語の私は~、という意味です)
実は、上記の質問者と同様の問題意識が、mekさんにとって水中ニーソ等のサブカル面から見出され、共有されているのではないか?
そう直感してみたわけです、、、とはいうものの、、え~、今のところ(知見がなさ過ぎて)これ以上、深い考察まではいけそーにないんですけどネ!←そこが一番のネック^^;
スイマセン、なんかコメント欄、だらだら思考垂れ流しの掲示板みたいな使い方しちゃって(汗