泥臭さを少しだけ脱臭したい

【今の自分に自信が持てない、だから起業して生まれ変わりたい、でも自尊心を侵す泥臭いことは嫌だ】という起業病はリヤカー屋台で矯正できるのか?
http://minakata-science.com/?p=1233

こんなエントリーが。

実際、今の日本社会で働いている人で、隣の芝症候群にかかり起業を妄想している人は多いと思う。そういう人たちの構想は、構想というか妄想であることがしばしばであるのは本当だと思う。その手の人たちの生存率を高めてあげる認識論的なリハビリっていうは、ほんとに必要。ブログを書いた方は、実体験から痛切にそれを感じそれが自分の責任とまで仰ってる。

このことの重要性はまったく同意なんだけど、泥臭さという単語の日本的文脈の中で持つ力というのが、大変厄介な問題をはらんでいると思うわけで。つまり・・・泥臭さをあんまり肯定すると、エクセルの作業をマクロにしてボタン一発で終わらせたら、手抜きだと叱られた、というような土壌を温存しがちだということ。

工夫ではなく苦労を尊ぶこと=泥臭さとなっているのが、昭和からの日本の社会風土。これが今、耐用年数を迎えていると思ってる。泥臭くマネジメントした結果、過労で人が死んでもいる。実は、体罰の問題の根っこも共通なのではないかと(多少飛躍か)。

確かちきりんさんがこんなことを書いていた。いまどき政治家になってメリットがあると感じるのは、来る日も来る日も無視されながら、街頭でペコペコできるような人だけ。そうでない人は政治家になろうと考えない。結果、そういう人がそういう政策を作り、そういう社会になっていく。そりゃ衰退するよね?と、こんな感じだったかな。

頭がよくプライドが高い人たちはこういう状況に反発を感じるから、実状と乖離してしまって妄想的なアイディアを発想してしまう。そんな気がする。そういう人たちを単に環境の方を正として矯正するのは、よくないのではないか。

泥臭さの方を所与の環境として肯定するのは、耐用年数の過ぎた古いシステムの温存に繋がる。だから、ここでも、ありがちに中間を取る必要があるんでは。泥臭いことを、ちょっとスマートにカッコよくやってみる。やはりありがちに、泥とカッコよさのバランスが大切になってくる。まあ、農業をデザイナー長靴でやるとかいうんじゃダメなんだろうけど(笑)

アメリカナイズされ過ぎた合理主義も、取り入れ過ぎたらよくないと思うけどね。というわけで、自然と農業とITが私のテーマです。